2015年11月18日 19:01
* * *
それから、星の娘と老人は、幾日も薔薇の城に滞在した。
眠るためには、それぞれ一部屋ずつが割り当てられており、香りのいい蝋燭が灯され、老人には緋色の天蓋、星の娘には紺碧の天蓋のついた立派な寝台がそれぞれ用意されていた。
眠りにつこうとする頃には、いつも金のカップに入った温かい飲み物――その時によって香りの違う、薬草を煎じた茶――が枕元に置かれていた。
それはどうやら、あの白い仮面の男が用意してくれているようで、星の娘は寝室に向かおうとするとき、こちらを向いて廊下を歩いてくる仮面の男と行き合い、会釈を交わして行きすぎることがたびたびあった。
だが、少なくとも星の娘は、彼と寝室で出くわしたことは一度もなかった。
夜、ふかふかの寝台でぐっすりと眠り、朝になって目が覚めると、星の娘はまず食堂へ向かった。
そこは奥行きのある白い広間で、天井近くにいくつも明かり取りの窓が並ぶ明るくがらんとした場所だった。
何十人もが一度に着席することができる長い黒檀のテーブルがあり、星の娘がここに来ると、いつもちょうどその直前に並べられたばかりのような温かさで、金の深皿に入った香ばしいお粥のようなものと、浅い皿に花のような切り込み飾りをつけて盛られたとりどりの果物と、目の覚めるミントの香りのお茶が並べられていた。
星の娘は毎朝、他に誰もいない食堂で、お腹いっぱいになるまで朝食を食べた。
一口食べ、飲むごとに、豊かな風味が口の中いっぱいに広がり、滋養が体じゅうにしみわたっていくような気がした。
食事を終えると、星の娘はいつも立ち上がって食堂の壁際をぐるりと散歩することにしていた。
そこには様々な大きさや形の額縁にはまった絵が飾られているのだが、その絵は毎日、違うものになっていた。
誰かが――それは、あの仮面の男の他にはいないだろうが――毎日、すべての絵をかけ替えているのか、それとも、絵そのものが変わっているのか、星の娘にはよく分からなかった。
それらの絵は、荒々しい怪物や、さびしく暗い風景を描いたものもあれば、鳥や植物などの姿をおそろしく細密に描いたものもあり、また、街や、橋を描いたものもあった。
ただ空と、雲を描いただけのものもあり、魚、獣、武器、衣服、食べ物、山脈や大河などの景色を描いたものもあった。
どの絵の中にも、人の姿はなく、どれほど荒々しい場面が描かれていようと、どの絵もみな、静かな感じがした。
その日の絵をみんな見尽くすと、星の娘は食堂を出て、城の中をどこへでも足の向くままに歩いて行った。
図書館に入り、書架から本を取り出してはさまざまな意匠を凝らした表紙を眺めて楽しむこともあったが、だいたいは大温室に向かった。
大温室はその名の通りに広大で、そこに集められた植物たちは、高地に生えるもの、熱帯雨林に生えるもの、砂漠に生えるもの、湿地、海辺、極地に生えるものと、あらゆる植生を網羅しているかのようだった。
様々な花の香りをかぎ、葉の色や形のちがいを楽しみながら歩き回ったあとで、星の娘が疲れた足を休めるのは、いつもきまって薔薇の女神が眠る貝殻の寝台のそばだった。
絹糸のようにつややかでやわらかな草の上に座り、ときにはごろりと横になって、星の娘は温室のガラスごしに空を眺めた。
雲ひとつない空は、宇宙に近いことを思わせる澄んだ青さで、寝転んだまま見つめていると、吸い込まれていきそうな、あるいは、どこまでも落ちていきそうな感覚にとらわれるのだった。
空腹になると、立って実のなる木のところへ行き、赤や黄色に色づいた実をもいで食べた。
これは女王が教えてくれたことだった。
この大温室にはいくつもの食べられる実のなる木があって、それらの全部がどこに生えているか、高いところになっている実をどうやって取ればいいか、ここへ来てすぐのうちに、女王は親切に何もかも教えてくれた。
星の娘は、手がかりになる枝がたくさん出ていて、しかも折れにくい木を選び、習った通りにするすると登っていった。
高いところで二股に分かれた枝のあいだにおさまり、すぐそばになっている握りこぶしほどの大きくやわらかい実をたくさんもいで食べ、黒くてサクサクとした歯触りの種まで全部食べてしまった。
やがて一日の終わりに空の片側が染まりはじめると、星の娘はそちら側に面した中で一番背の高い木によじ登り、樹冠から顔を出して、この上もなく美しい色彩の層のうつりかわり、この上もなく繊細微妙な暈しの具合を飽かず眺めた。
その美しさを眺めていると、光こそがこの世の美しさの全ての源ではないかという荘厳な気分になった。
すっかり日が暮れて、闇の帳がおりる寸前の空の色は、どんなことばをもってしても言い表すことはできないと思った。
そして小さな白い花がかたい花弁を開くように、空に無限の星が瞬きはじめると、星の娘はすっかりお腹を空かして木から降り、朝食を食べたのと同じ食堂へ降りていった。
そこにはあたたかな灯りがともされ、女王と、老人と、仮面の男がいて、大きなテーブルの隅に皆で座り、用意された温かい夕食を食べるのだった。
老人と仮面の男は酒を飲むこともあり、その美しい紅色や琥珀色、花のような香りは星の娘を魅了したが、彼女は女王と温かいお茶を飲むことにしていた。
四人は大いに食べ、飲み、談笑したが、まるで紗の幕を通して見るようにその中身はすぐにぼやけてしまって、席を立つ頃には、何を話したということも覚えてはいないが、ただ楽しく温かい気持ちだけが心を満たしているのだった。
眠る前には、あの多段滝の浴場で心ゆくまであたたまり、浅い場所を見つけて寝そべりながら、天窓から見える星々がゆっくりと動いてゆくさまを眺めるのだった。
毎日、星の娘はそうやって過ごした。
星の娘は、この城で暮らしながら、心からくつろいでいた。
起きて、食べ、飲み、湯浴みして眠る。
何かをしなくてはならないということはなく、ただ心の赴くままに、したいことをして一日を過ごし、美しいものを心から美しいと感じる。
幸福であり、満ち足りていた。
これ以上のものはない日々だった。
【庭の王国への旅42へと続く】
それから、星の娘と老人は、幾日も薔薇の城に滞在した。
眠るためには、それぞれ一部屋ずつが割り当てられており、香りのいい蝋燭が灯され、老人には緋色の天蓋、星の娘には紺碧の天蓋のついた立派な寝台がそれぞれ用意されていた。
眠りにつこうとする頃には、いつも金のカップに入った温かい飲み物――その時によって香りの違う、薬草を煎じた茶――が枕元に置かれていた。
それはどうやら、あの白い仮面の男が用意してくれているようで、星の娘は寝室に向かおうとするとき、こちらを向いて廊下を歩いてくる仮面の男と行き合い、会釈を交わして行きすぎることがたびたびあった。
だが、少なくとも星の娘は、彼と寝室で出くわしたことは一度もなかった。
夜、ふかふかの寝台でぐっすりと眠り、朝になって目が覚めると、星の娘はまず食堂へ向かった。
そこは奥行きのある白い広間で、天井近くにいくつも明かり取りの窓が並ぶ明るくがらんとした場所だった。
何十人もが一度に着席することができる長い黒檀のテーブルがあり、星の娘がここに来ると、いつもちょうどその直前に並べられたばかりのような温かさで、金の深皿に入った香ばしいお粥のようなものと、浅い皿に花のような切り込み飾りをつけて盛られたとりどりの果物と、目の覚めるミントの香りのお茶が並べられていた。
星の娘は毎朝、他に誰もいない食堂で、お腹いっぱいになるまで朝食を食べた。
一口食べ、飲むごとに、豊かな風味が口の中いっぱいに広がり、滋養が体じゅうにしみわたっていくような気がした。
食事を終えると、星の娘はいつも立ち上がって食堂の壁際をぐるりと散歩することにしていた。
そこには様々な大きさや形の額縁にはまった絵が飾られているのだが、その絵は毎日、違うものになっていた。
誰かが――それは、あの仮面の男の他にはいないだろうが――毎日、すべての絵をかけ替えているのか、それとも、絵そのものが変わっているのか、星の娘にはよく分からなかった。
それらの絵は、荒々しい怪物や、さびしく暗い風景を描いたものもあれば、鳥や植物などの姿をおそろしく細密に描いたものもあり、また、街や、橋を描いたものもあった。
ただ空と、雲を描いただけのものもあり、魚、獣、武器、衣服、食べ物、山脈や大河などの景色を描いたものもあった。
どの絵の中にも、人の姿はなく、どれほど荒々しい場面が描かれていようと、どの絵もみな、静かな感じがした。
その日の絵をみんな見尽くすと、星の娘は食堂を出て、城の中をどこへでも足の向くままに歩いて行った。
図書館に入り、書架から本を取り出してはさまざまな意匠を凝らした表紙を眺めて楽しむこともあったが、だいたいは大温室に向かった。
大温室はその名の通りに広大で、そこに集められた植物たちは、高地に生えるもの、熱帯雨林に生えるもの、砂漠に生えるもの、湿地、海辺、極地に生えるものと、あらゆる植生を網羅しているかのようだった。
様々な花の香りをかぎ、葉の色や形のちがいを楽しみながら歩き回ったあとで、星の娘が疲れた足を休めるのは、いつもきまって薔薇の女神が眠る貝殻の寝台のそばだった。
絹糸のようにつややかでやわらかな草の上に座り、ときにはごろりと横になって、星の娘は温室のガラスごしに空を眺めた。
雲ひとつない空は、宇宙に近いことを思わせる澄んだ青さで、寝転んだまま見つめていると、吸い込まれていきそうな、あるいは、どこまでも落ちていきそうな感覚にとらわれるのだった。
空腹になると、立って実のなる木のところへ行き、赤や黄色に色づいた実をもいで食べた。
これは女王が教えてくれたことだった。
この大温室にはいくつもの食べられる実のなる木があって、それらの全部がどこに生えているか、高いところになっている実をどうやって取ればいいか、ここへ来てすぐのうちに、女王は親切に何もかも教えてくれた。
星の娘は、手がかりになる枝がたくさん出ていて、しかも折れにくい木を選び、習った通りにするすると登っていった。
高いところで二股に分かれた枝のあいだにおさまり、すぐそばになっている握りこぶしほどの大きくやわらかい実をたくさんもいで食べ、黒くてサクサクとした歯触りの種まで全部食べてしまった。
やがて一日の終わりに空の片側が染まりはじめると、星の娘はそちら側に面した中で一番背の高い木によじ登り、樹冠から顔を出して、この上もなく美しい色彩の層のうつりかわり、この上もなく繊細微妙な暈しの具合を飽かず眺めた。
その美しさを眺めていると、光こそがこの世の美しさの全ての源ではないかという荘厳な気分になった。
すっかり日が暮れて、闇の帳がおりる寸前の空の色は、どんなことばをもってしても言い表すことはできないと思った。
そして小さな白い花がかたい花弁を開くように、空に無限の星が瞬きはじめると、星の娘はすっかりお腹を空かして木から降り、朝食を食べたのと同じ食堂へ降りていった。
そこにはあたたかな灯りがともされ、女王と、老人と、仮面の男がいて、大きなテーブルの隅に皆で座り、用意された温かい夕食を食べるのだった。
老人と仮面の男は酒を飲むこともあり、その美しい紅色や琥珀色、花のような香りは星の娘を魅了したが、彼女は女王と温かいお茶を飲むことにしていた。
四人は大いに食べ、飲み、談笑したが、まるで紗の幕を通して見るようにその中身はすぐにぼやけてしまって、席を立つ頃には、何を話したということも覚えてはいないが、ただ楽しく温かい気持ちだけが心を満たしているのだった。
眠る前には、あの多段滝の浴場で心ゆくまであたたまり、浅い場所を見つけて寝そべりながら、天窓から見える星々がゆっくりと動いてゆくさまを眺めるのだった。
毎日、星の娘はそうやって過ごした。
星の娘は、この城で暮らしながら、心からくつろいでいた。
起きて、食べ、飲み、湯浴みして眠る。
何かをしなくてはならないということはなく、ただ心の赴くままに、したいことをして一日を過ごし、美しいものを心から美しいと感じる。
幸福であり、満ち足りていた。
これ以上のものはない日々だった。
【庭の王国への旅42へと続く】
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