スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

庭の王国への旅 45

2015年12月30日 11:27


     *     *     *     *

        *     *     *     *

     *     *     *     *


 星の娘は、ゆっくりと両目を開いた。

 横たわった自分を包み込む透明なキャノピー越しに、照明の消えた天井が見えた。

 彼女が身を起こすと同時、その動きを感知して滑るようにキャノピーが開き、部屋が明るくなった。

 ひどく寝坊した朝のように頭が重かったが、他にはどこにも不調を感じることはなかった。

 時空跳躍ゲートと呼ばれるその空間には、彼女が今まで入っていたのと同じ、繭のような形状の跳躍用のカプセルがいくつも並んでいた。

 そのうちのひとつが開き、老人が静かに起き上がった。

 二人はしばらく、大作映画を観終えた観客がするように、無言で座り、顔を見合わせ、それまでの経験を噛みしめあった。

 やがて、老人はゆっくりとカプセルのふちから身を乗り出し、モニターに示された数字を確認した。

「三百五十九日と、二十時間、四十四分。――地上の時の流れではな。」

「まあ……」

 星の娘は銀色の髪に指を差し入れ、こめかみを軽く押し、首を左右に傾け、ゆっくりとカプセルの壁を押し、その部分を開いて床に降り立った。

 それから、急に振り返ってカプセルのふちに両手をつき、中を覗き込んだ。

「あった!」

 彼女が取り上げたのは、色とりどりの細長い布を束ねたものだった。

 彼女はそれを胸に押し当て、手放したら消えてなくなるのではないかと疑うように、しげしげと見た。

「あたくし……本当に持ってくることができるなんて、思っていませんでしたわ。
『はてしない物語』のバスチアンでさえも、生命の水を持ち帰ることはできなかったのに。」

「いいや。彼は、生命の水を持ち帰ることができた。そうじゃろう?」

「ああ……そう、確かに、そうでしたわね。」

 星の娘は、ちょっと笑って、またこめかみを押した。

「あたくし、まだ少し、頭がぼんやりしているようですわ。
 ――おじいさまは、ちゃんと、あれをお持ち?」

 問いかけに応えて、老人はふところから、青紫色の小さな缶を取り出した。

 振ると、かさかさと小さく乾いた音がした。

「あれほど何度も、水に浸かったわりには、見事な保存状態。」

「本当に。きっと、砂漠の魔女さんの力ですわね。」

 自分たちだけに通じる会話でくすくすと笑った星の娘は、うんと背中を逸らし、大きく肩を回した。

「三百五十九日ですって! それほど長かったなんて。
 ――いいえ、本当は、もっと長くいたような気がするけれど。
 あたくしたち、危うく、地上の丸一年もこちらを留守にするところだったのね。
 アウローラさん、元気にしているのかしら?」

「行こう。」

 老人も床に降り、腰をとんとんと叩きながら言った。

「彼女はきっと、待ちくたびれておるよ。」



 ふたりがほとんど一年ぶりに執務室に入っていったとき、その部屋は薄暗く、しんとしていた。

 だが、黒髪の娘は、そこにいた。

 執務机のライトだけを灯し、こちらに背を向けて、いつものように頬杖をつき、灰色の椅子の上に足を組んで座っていた。

 彼女の前にはいくつものディスプレイが並んでいたが、今、そのどれにも光は灯っておらず、彼女はぼんやりと宙を見つめながら、手にしたティーカップをゆっくりと回して、中身を揺らしていた。

 執務机の上には、何冊かの書物が無造作に置かれていた。

 トゥキュディデス著、藤縄謙三訳『歴史』、アーシュラ・ル=グウィン作、清水真砂子訳『さいはての島へ』、トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳『ティファニーで朝食を』――

 星の娘と老人は黙ったまま顔を見合わせ、しばらく視線と表情だけでやりとりをした末、老人が一歩、進み出て、咳ばらいをした。

「うわ。」

 と黒髪の娘は言い、カップの中身をこぼしそうになりながら振り返って、立ち上がった。

「あ、二人とも、おかえりなさい。」

「ええ。」

 星の娘は、複雑な表情で言った。

 一年近くも、大いなる旅のために留守にしていたというのに、このような出迎えは、ひどく軽々しいものに思えたからだ。

「アウローラさん、お元気にしていらした?
 あたくしたち、ずいぶん長く、こちらを空けてしまいましたわね。」

「ええ、いや、なに。大丈夫ですよ。こっちには、ボレアルくんやヘリオスくんもいましたし。
 あ、ちょうど今、休憩にお茶を飲んでいて、フォーチュンカップのことを考えていたんですよ。
 紅茶占いの。買おうかどうしようかってね。
 知りませんか? 昔、流行ったんですよ、だいぶ昔にですけど。」

 黒髪の娘は、そこまで一気に喋ってから、じっと二人を見つめた。

 そして、もう一度、

「おかえりなさい。」

 と言った。

「ええ。」

 星の娘は、微笑んだ。

「素晴らしい旅だったわ。アウローラさんが昔、見た景色を、あたくしたちも見てきたの。」

「とても、きれいなところだったでしょう?」

「ええ、本当に。――最高の空だった。」

 星の娘が差し出した色とりどりの布の切れ端を、黒髪の娘は受け取り、まるでそこに物語が書き記されているとでもいうかのように、じっと見つめた。

 次に顔を上げたとき、彼女は懐かしそうに笑っていた。

「隊長、元気にしてるみたいですね。」

「もちろんじゃ。それに、他の人たちにも会ったぞ。」

 老人が進み出て、青紫色の小さな缶を差し出した。

 黒髪の娘は、目を見開いて動きを止め、それから、そっとその小箱を受け取って、開いた。

「ああ――」

 黒髪の娘はそう呟き、長いこと黙っていた。

 泣き出すふうでもなく、笑うわけでもなく、ただじっと砂糖漬けのボリジの花を見つめるその目には、過去が海のように満ち、あの空が映っていた。

「お茶を、」

 と、やがて、缶の蓋を閉じ、黒髪の娘は言った。

「もう一度、お茶を淹れましょう。一番、上等なやつを。
 あのひとが淹れてくれるお茶の味には、かなわないにしてもね。」

「ええ、そして、その席で、あたくしたちの旅の話をすっかり聞かせてさしあげるわ。」

 星の娘は笑って、身をひるがえした。

「あたくし、沸かしたてのお湯を持ってきますわ。茶葉とティーセットの用意をお願いしますわね。」

「では、わしはヘリオスと、ボレアルくんを呼んでこよう。」

 老人も、急いで部屋を出ていった。

 遠くから「おうい、帰ったぞ。」と叫ぶ声と、それに応じるにぎやかな声が聞こえてきた。


 ひとり残された黒髪の娘は、色とりどりの布の切れ端をあらためて取り上げ、つくづくと眺め、

「そう、覚えていますよ。――最高の空だった。」

 強く胸に押し当てたそれを、そっと、机の引き出しにしまった。




 そして物語と歌は終わることなく、世の果てた後までも、永遠に響き続ける――





    【庭の王国への旅 完結】
スポンサーサイト

庭の王国への旅 44

2015年12月29日 10:54

       *       *       *       *


 ごうっと音がして、星の娘の美しい銀色の髪は旗のようになびいた。
 
 強い風が吹いている。
 
 星の娘は、急に明るいところに出たために半分ばかり下ろしていたまぶたをそっと開いた。
 
 そして、見た――
 
 自分が、完璧に青い空の下の、美しい庭園の真ん中に立っているのを。


 樹木のたぐいは一本もなく、足元は一面の草と、色とりどりの小さな花々と、強風に耐える丈の低い植物のしげみにおおわれていた。

 そして、その中を、砂色の石で敷かれたまっすぐな細い道が、秘密に満ちた図形のように縦横に通っていた。

 これほど風が強いにも関わらず、草花はみずみずしく、ひとつの瑕もなかった。

 庭園の形は正六角形で、それぞれの辺が三十歩ほどの長さしかながった。

 そして、周囲には、同じように空中に浮かぶ小島のような庭たちが点在していた。

「天空の庭……」

 そう呟く声が聞こえ、星の娘は振り返った。

 そこに老人が立ち、子供のような表情であたりを見回していた。

 彼女たちが立っている六角形の庭園は、明るい砂色の石でできた短い橋で、隣の庭園とつながっていた。

 そこにも丈の短い植物がしげり、白い石でつくられた大きな噴水があって、絶え間なく水を噴き上げていた。


 星の娘と老人は、手すりのない橋を渡っていった。

 橋の下には、何もなく、ただ風だけが吹きぬけていた。

 いや、気が遠くなりそうなほど下に、一面の、真っ白な板のようなものが見えた。

 それは、雲海なのだった。

 見回す周囲のぐるりは、すべて青空だった。

 ここは、雲よりも遥かに高く、視界をさえぎるものは何一つなく、空の青は、その底に深い深い藍色と、宇宙の黒を感じさせる色合いだった。

 強い風は決して途絶えることなく、さまざまな方向から吹き付けて、星の娘の髪と、老人の衣を激しく吹きなびかせた。

 その絶え間ない風音の向こうから、何か、音楽がきこえるような気がした。

 その音色は、命の海の中できこえていた音よりも、もっと明るく、きらめくような、華やかな音だった。

 星の娘は目を閉じ、両腕を広げて、全身で風を受け止め、その音を聴いた。

 涙が出てきた。

 その音は、あまりにも雄大で優しく、美しく、きっとここの他では決して聴くことができないのだという気がした。

 それは、物語の世界がうたっている歌だった。

 その歌は決してやむことはなく、聴く者がいようといまいと、永遠に、この風の中で、高らかに響き続けるのだ。

「ひとたび、お別れする時がきましたね。」

 女王の声がきこえた。

 星の娘と老人が振り返ると、みずみずしい芝生の上に、金の王冠をかぶった女王が立って、微笑んでいた。

「あの子の旅立ちの日にも、私は、この王冠をかぶっていたの。
 あの子に伝えてほしいわ。私たちは今も、変わらずにここにいると。」

 激しい風に、女王の青い髪は旗のようになびき、その衣は軽やかな羽ばたきの音をたてた。

「ええ、必ず。」

 星の娘は、深く膝を曲げて、女王に礼をした。

「あたくしたち、何ひとつ落とさずに、アウローラさんに伝えますわ。
 あなたのことも、この国の景色のことも、この国の人々のことも――」

「いつでも、帰ってきていいんですよ!」

 いつの間にか、女王のうしろに仮面の男が立って、両手をもみしぼり、泣きそうな顔でこちらを見ていた。

「ありがとう。」

 老人が言って、深々と頭を下げた。

「必ず、戻ります。地上での、わしらの時が尽きる時には。」

「あら!」

 星の娘は叫び、遠くを指さした。

「あれは、何?」

 四人は同じ方向を向き、青空の彼方に目を凝らした。

 それははじめ、洗われたような青を背景に、ただの黒い点のようにしか見えなかった。

 それから、星の娘は、蛇か、龍の子供が空を飛んでいるのではないかといぶかった。

 それは何か細長いもので、何もない空中をうねり、くるりくるりと宙返りをしながら、庭園に立つ四人のほうへと近付いてきた――

「風祭の布だわ!」

 星の娘は突然飛び上がり、手を打って叫んだ。

「ほら、あの布よ! エレクトラさんたちが、槍につけていらした、色とりどりの!
 風祭の終わりに、東風にのせて飛ばした、あの布だわ!」

 その布は、いまや端切れの一枚一枚がはためく様が見てとれるほど近くまで来ていた。

 そして、その布を手でつかんでいるのは、つむじ風をまとった透明な子供のような、不思議なものだった。

「あれは、大嵐ッ子ですな。」

 仮面の男が言った。

「一の女王陛下は、何かの物語からとって、バンダースナッチと呼んでおりましたよ。
 あの者は気まぐれに大風を吹かせるので、翼の騎士団とは仲が悪いのですがね。
 ところが、女王陛下が旅立たれる日、あの者は、翼を背負った隊長を助けて、この庭まで吹き上げ――」

「つかまえて、つかまえて!」

 星の娘が叫び、全員が子供のように飛び跳ねて布を掴もうとした。

 大嵐ッ子は声をたてて笑い、くるくると回って四人をからかった後、星の娘に飛びついて、その手の中に布を押しこんだ。

 そして、笑いながら庭園の花々を吹き散らし、吹き抜けて、行ってしまった。

「これは、きっとエレクトラさんの布だわ。」

 星の娘は、布をしっかりと握りしめながら、乱れ、もつれた髪を払いのけた。

「そんな気がするの。
 あの、大嵐ッ子という子供のこと、ここへ来る途中の、物語の壁に彫ってありましたわ。
 今日は、エレクトラさんは来られないから、かわりに、この布をここへ届けてくれたのね。」

「ぜひ、お持ちなさい。この国の思い出に。」

「はい!」

 女王のすすめに、星の娘は笑顔で答え、庭園のふちに、まっすぐに立った。

 帰るには、どうすればいいか、彼女たちは黒髪の娘から聞いて知っていた。

 彼女が旅立ったときと、同じ道――

 この庭園から、宙へ飛び出し、空の中の道を通って帰るのだ。

 老人が、星の娘のとなりに立った。

 遥か下の雲海まで、何もない空中が広がっていたが、足が震えることはなかった。


 まるで、夢の中にいるときのような感じだった。

 夢の中で、ああ、これは夢だ、と気付いたときのような――

「あたくし、決して、忘れませんわ。」

 星の娘はそう言い、息を吸い込んで、地面を蹴った。

 老人も同時に飛び出したか、それとも遅れたか、彼女には分からなかった。


 青い空の中を、真っ逆さまに落ちていく。

 耳元で風がうなり、握りしめた布が、手の中でばたばたと羽ばたきの音を立てた――




庭の王国への道45へと続く

庭の王国への旅 43

2015年12月27日 19:15

    *      *     *     *


 ふたりは二の女王のあとに続き、大温室を出て、長い螺旋階段を降りていった。

 仮面の男がそのあとから続いた。

 がらんとした明るい広間や、ゆるやかに曲がる廊下を通り抜け、いくつもの階段をくだり、一同は進んでいった。

 そのあいだ、誰も、何も喋らなかった。


 やがて、外の光をとりいれていたたくさんの窓がなくなり、金色のランプの灯りがゆらめく薄暗い廊下となり、そのランプも少しずつまばらになっていった。
 
 いつしか一同は、黒い石を掘り抜いてつくられた暗いトンネルの中を、一列に並んで歩いていた。
 
 トンネルの壁と天井とは、ひとつづきのアーチになっていて、手を伸ばせば両側の壁にも、天井にも触れることができるほどの広さしかなかった。

 壁には一定の間隔で小さな窪みが掘られていて、そこに一本、あるいは数本のろうそくが灯され、辛うじて足元を照らしてくれていた。

 その灯りが床に反射して、濡れたような光を放っていた――いや、いつの間にか、床は実際に濡れていた。

 果てがないように思えるほど、長く歩くあいだに、空気には少しずつ湿り気が増し、気のせいだろうか、重さすら感じるようになってきた。

 星の娘と老人は、どちらも何も言わず、まっすぐに歩く女王の背に続いて歩き続けた。


 やがて、踏み出した一歩の音が不意に大きく反響した。

 一同は、がらんとした地下のドームのような場所にいた。

 入口の両脇の窪みに、それぞれ一本ずつ灯された蝋燭のほかに灯りはなく、天井は闇に消えて、どこまで高さがあるのかは全く分からなかった。

 濡れた石の床の中央には、腰の高さほどの円形の石組みがあり、そこには満々と水が湛えられていた。

 不意に、どことも知れぬ上方から、一滴の雫が落ちてきて、水面を叩いた。

 高い、澄んだ音が壁に幾重にも反響し、いくつものこだまとなって再び上方へと昇っていき、消えた。

「あなたがたは、この城に入るとき、」と女王が言った。「水の中を通ってきましたね。今度もまた、水の中を通っていくのです。」

「まあ。」

 星の娘は、嫌な予感はしていたがやはりそうだった、という調子で言った。

「あたくし、――ええ、もし、どうしてもその必要があるというのなら、行きますわ。
 でも、あたくし、正直に申し上げて、もう二度とあのひとには会いたくありませんわ!」

「あのひと?」

「あの、横柄な、蒼白い顔をした、――夜の王。」

 星の娘は、小さな声で言った。

 こんな暗い場所でその名を口にするのは、適切なこととは思えなかったのだ。

 女王は微笑んだ。

「あなたが愛する、星や、月や、太陽の光があるならば、その反対側には、闇もまたあるのです。
 でも、心配することはありません。この先は、彼の領域ではない。
 彼が治めるのは、地下の黄泉の国。この先は、黄泉の国にはつながっていませんから。」

「それなら、安心ですわね。」

 星の娘は言ったが、暗い水面を用心深く見つめる目つきは、ことばほどには安心していなかった。

「でも、きっと、とても冷たいのでしょうね? それに、どれくらい長いのかしら?
 もしも、途中で息が切れて、溺れてしまったら――」

「大丈夫。」女王は言った。「水面に、触れてごらんなさい!」

 星の娘と老人は、顔を見合わせた。

 すぐに、老人が前に進み出て、真っ暗に見える水面に手をひたした。

「おや!」彼は叫んだ。「これは水ではない。――お湯じゃ。ぬるま湯と言ったほうがよいかな。ちょうど気持ちがよいくらいの温度じゃ。」

 星の娘も進み出て、水面に手を触れてみると、確かにそれは人肌ほどの絶妙なあたたかさをもっていた。

「この水は、普通の水とは違います。」女王が言った。「この中では、溺れるということがありません。息ができるのですから。」

「水の中で?」

 星の娘は、驚いてきいた。

「ええ。」

「どうやって?」

「潜ったら、息を吐き切って、それから、思い切って吸い込めばいいの。」

 そんなことをしたら鼻がつんとなるし、それこそ溺れ死んでしまうわ、と星の娘は思ったが、それを口に出しては言わなかった。

「潜ったら、わしらは、どちらへ行けばよいのですかな? 下へ、それとも、横へ?」

「何もしなくてよいのです。流れが、あなたがたを運ぶでしょう。――さあ。」

 女王が腕を振って、暗い水面を示した。

「では、わしから行こう。」

 すでに覚悟を決めたように、老人が言って、水を満々と湛えたふちに足をかけた。

「おじいさま。」

 思わず、星の娘は引き留めようとしたが、それよりも早く老人の体はぐらりと前にのめり、ほとんど一回転するようにして、暗い水の中へはまり込んだ。

「おじいさま!」

 老人の姿は、まったく見えなくなった。

 浮かび上がってくることもなかった。

 星の娘はもはや女王をふりかえって見ることもせず、思い切り息を吸い込み、息を止め、一気にふちを踏み越えて水の中へと身を躍らせた。


 一瞬にして、あたたかい水が身体を包みこむ感覚があった。

 星の娘は真っ暗な水の中で必死にまぶたを開き、目を凝らしたが、自分の身につけた衣から湧き上がる無数の真珠のような泡の他には何も見えなかった。

(息ができない。)

 本能的な恐怖に襲われて身をもがいた星の娘は、急速な息苦しさが頂点に達したとき、堪え切れずに水を吸い込んでしまった。

(ああ、だめ、溺れて死ぬわ、――あら?)

 あたたかい水が鼻と喉を滑るように抜けていき、肺をいっぱいに満たし、口に溢れた。

 星の娘は、自分が、暗い水の中で呼吸をしていることに気付いた。

 ほとんど信じられない気分で、星の娘は縮めていた両手足をそっとのばしてみた。

 水中で重みを失った体は、まるで何もない闇の中に浮かんでいるかのように感じられた。

 しかし、宙に浮いているのとは違い、周囲すべてを水が取り巻いている感覚があり、それは不思議と安心感をもたらすものだった。

(沈んでいく――)

 小さな泡の粒が動いてゆく向きから、上下の区別はついた。

 手足を動かしてもいないのに、星の娘の体はぐんぐんと沈んでいた。

 まわりの水そのものが動いて、彼女の体を下へ下へと運んでいるようだった。

 それでも、不思議と怖くはなかった。

 星の娘は口から最後の空気の小さな泡の粒を吐き出し、力を抜いて、全身を水にゆだねた。

 まるで平和な夢を見ているように、穏やかで、安心しきった気分だった。

 やがて星の娘は、自分が流されている場所が、もはや広い暗闇の中ではなく、硝子でできたような、太く透明な管の中であることに気付いた。

 目を上げると、その長く太い管がゆるやかに曲がり、螺旋のように渦巻いたり、波打ったりしていながら闇の彼方へとのびていくのが、透明な壁ごしに透けて見えた。

 やがて、闇の中に、いろいろなものがぼんやりと浮かび上がって見えはじめた。

 それは、はじめは白っぽいもやか、砂粒の集まりのようにしか見えなかった。

 それが闇のあちこちにあって、宇宙に似ていた。

 それらはやがて、無数の小さな生き物のかたちになり、闇のあちこちに、静かに漂っていた。

 泳ぐもの、這うもの、飛ぶもの――

 どういう性質のものかよく分からない、奇妙な姿をしたものたちもたくさんいた。

 とびはねるもの、走るもの――

 声のないもの、その身を打ち鳴らすもの、吠えるもの、笑うもの――

 生き物たちの姿はどんどん多様に、複雑になり、それらがみな眠っているようにじっと浮かんでいた。

(命の海……)

 無限の闇をゆく管の中を漂いながら、星の娘は、ふとそんなことばを思った。

 いつのまにか、音が、聞こえていた。

 それは声でも音楽でもない、ずっと鳴り続けていたためにこれまでそうと気付かなかった、ただひとつの途切れることのない音だった。

 その音は周囲に広がる闇とひとつのものであり、闇に果てがないのと同じように、その音にもまた終わりはなかった。

 星の娘は、本当の無限というものを全身で感じ取ったのはこれが初めてだった。

 おそろしさや感激などという名をつけることのできない、原始的な感覚が彼女をつらぬき、彼女は泣き、その涙は彼女を包む水にとけた。

 彼女を運ぶ管が、白い光に包まれ、彼女は顔を両手でおおった。


 長い時間が経ってから、星の娘は、そっと自分の手を顔の前からどけた。

 そして、自分はどこの遺跡に迷い込んだのだろうかと思った。

 彼女はいつのまにか、髪からぽたぽたとしずくを垂らしながら、浅い池の中にひざまずいていた。

 その池は、鈍い銅色に光るタイルにかこまれ、ひとつひとつのタイルに、何かの物語をあらわす模様が線で彫られ、ところどころには色もついていた。

 その彫刻は彼女が膝をついている浅い池の底にも、びっしりとほどこされていた。

 彼女は立ち上がり、見上げた。

 彼女がいるのは、灰色の床に、砂色の壁の細長い部屋だった。

 あたりがとても明るいのは、砂色の壁が右側にしかなく、左側は、床と同じ灰色をしたアーチ型の門が、縦にも横にも幾列も並んで、大きな格子のようになっているからだった。

 アーチの向こうはすべて、青い空だった。

 部屋の天井は恐ろしく高く、見上げても見えないくらいだった。

 そして、彼女の前にはいつのまにか、砂色の岩でできた、天井と同じくらい高くまでのびる階段があった。


 星の娘は、迷わず池から踏み出し、その階段をのぼっていった。

 濡れた衣のすそが階段にこすれ、跡を残した。

 右手の壁には、池にあったのと同じような、ただしそれよりももっと大きな、物語のレリーフがほどこされていた。

 レリーフは壁の全面にほどこされているようだったが、星の娘は、せいぜい自分の背丈の高さの二倍あたりにあるものまでしか、はっきりと見て取ることはできなかった。

 戦いの様子や、花々、鳥たち、姫君たち、魔女たち、川、風、竜――

 その表面に手で触れると、それがどういう物語なのか分かった。

 そこには、かつて庭の王国で起きた出来事、一の女王と呼ばれた少女が、ときにはひとりで、ときには妹と共に、この国を歩いた頃のことが記されていた。

 緑色の竜の物語、大嵐ッ子が遊びに来たこと、高い樹の上に天文台が築かれたこと――

 ウォラウォラ鳥の襲撃、仕立屋マーサの物語、夜の王の騎士たちの物語――

 魔女の庭に薬草園が作られたこと、真珠とり、オニユリの祖母の結婚、軍病院の建設、春には娘たちが花びらを金の糸でかがってドレスを作ったこと――

 文字に書かれず、誰に語られることもなかった無数の物語たちが、この壁にすべて彫り込まれ、記録され、永久にここにある。

 星の娘は、壁に触れながら、のぼり続けた。


 やがて、物語は彼女たち自身のことにまで及んだ。

 かつてこの国を旅立った一の女王のかわりに、長い時を経て、ふたりの旅人が庭の王国に来たこと。

 ふたりが王国の衛兵たちに出会い、砂漠の魔女に会い、オニユリと若者に出会い、軍病院の炎喰いの女性たちに出会ったこと。

 二頭の馬たちにおくられて〈流れたり流れなかったりする川〉にたどりつき、番人の男の子と大がえるのゲールに出会い、ケンタウロスたち、幼い女の子を抱いた母親と男の子、旅人に出会ったこと。

 あぶないところで全員が川を渡り、オニユリの茶屋へ行き、白オオカミの〈雪の王〉や鳥の魔女と出会い、小屋を借りて眠ったこと。

 翌朝、太陽が昇ったとき、翼の騎士たちが飛んできたこと。

 エレクトラ隊長と騎士たちとともに風祭の準備をし、夜には人々といっしょに踊りまくったこと。

 湖の妖精に惹かれた若者を追って、老人が林の奥に迷い込み、そこでオニユリの祖母に助けられたこと。

 オニユリの祖母におくられて、影の森を抜け、鎧を着た獣たちの爪をすり抜けて、湖の妖精たちのもとへ辿り着いたこと。

 妖精の娘が身を挺して星の娘を夜の王の手から救い、ふたりがようやく薔薇の城へと辿り着いたこと――


 星の娘はかすかな痛みを感じたように顔をしかめたが、足を止めることはなく、そのままのぼり続けた。

 レリーフは、薔薇の城での出会いを語り、それに続く日々の出来事を語った。

 そしてとうとう、ふたりが帰ることを思い出し、暗いトンネルを通り、あたたかく暗い水に飛び込み、命の海の中を通り抜けて、この長い階段を上ってゆくところまで来た。

(ああ、何もかも、すっかり書いてあったわ。――でも、この先は、いったいどう書かれることになるのかしら?)

 ちょうどそのとき、目の前に階段の終わりが見えた。

 暗い天井に、そこだけ四角く穴があいていて、その向こうは眩しくて何も見えなかった。

 星の娘は、細めた目の上に手をかざしながら、その穴を通り抜けて上がっていった。



   【庭の王国への旅44へと続く

庭の王国の旅 42

2015年12月17日 19:42



 *    *    *     *    *


 どれほどのあいだ、そうやって過ごしていたのか、分からない。

 ある朝、星の娘はいつものように朝食をとり、その日の絵を全部見て回り、それから大温室にやってきた。

 はだしで、みずみずしくすべすべとした草の感触を楽しみながら歩いていた星の娘は、ふと、足先にひとつの草花を見つけて、立ち止まった。

 すみれの花が咲いていた。

 星の娘は草の上に両膝と両手をついて、小さな紫色の花に顔を近づけ、その香りをかいだ。
 
 そしてあらためて花の色を見たとき、不意にまどろみから醒めるように、星の娘は、思い出した。
 
 すみれの花と同じ色の、ボリジの花の砂糖漬けのこと。

 そして、それを届けるべき相手のことを。

「アウローラさん。」

 星の娘は呟き、しばらく呆然と膝立ちの姿勢でいた。

 ここに来てから、何日、経ったのだろう。

 あまりにも長い間、なすべきことを忘れ去っていたという気がした。

 ここがあまりにも心地好いものだから、帰るということを忘れていたのだ。

「アストライアくん。」

 急に背後から呼ばれて、星の娘ははっとして振り向いた。

 そして彼女は初めて、大温室で、老人の姿を見た。
 
 彼は、星の娘と同じ表情をしていた。

「今は、何日じゃろうか?」

「分かりませんわ。」

 星の娘は裾をはらって立ち上がった。

「あたくしたち、ずいぶん長い間、こちらにお世話になりましたわね。日を数えることも、忘れてしまうくらい。
 ――おじいさま、まだ、あれをお持ち?」

 星の娘がゆったりとした衣の胸に手を当てて言うと、老人はうなずき、青紫色の小箱を取り出した。

「早いとこ、これをアウローラくんに持って帰ってやらねばな。」

「ええ。あたくしたち、少しぼんやりしすぎましたわ。帰らなくては。」

「もうですか?」

 悲しげな声が聞こえて、二人は同時にそちらを向いた。

 草の上に、仮面の男が立っていて、仮面越しにもはっきりと分かるほど気落ちした様子でこちらを見ていた。

「ずっと、ここにいらっしゃればよいではありませんか。
 この城は素晴らしいでしょう? 一の女王陛下がお望みになった通りにできているのですよ。
 美しく、静かで、心穏やかに過ごすことができる――」

 彼は、大きく振った両腕を、力なく下げた。

「それとも、私の仕事ぶりにご不満でしたでしょうか?」

「いいや、あなたの仕事ぶりは、完璧でしたぞ。」

 老人は言い、仮面の男に歩み寄って、その腕を軽く叩いた。

「あなたのおかげで、わしらはこの上なく気持ちよく滞在することができました。本当にありがとう。
 だが、わしらは、もう行かねばならぬのです。」

「外の世界など、つまらないですよ!」

 仮面の男は叫んだ。

「くだらないことで煩わされて、しなければならないことばかりで――
 ここのように美しいものも、素晴らしいものもないのに!」

「そうでしょうとも。」

 老人は言った。

「ここよりも良いところがあるなどとは、わしには思えぬ。
 ちょうど一日のうちで、あたたかい毛布にくるまって完全に目覚める直前の一瞬、気持ちの良いまどろみの中に漂っているときが一番いいのと同じようにな。
 だが、わしらは、そこから出ていかなければならん。
 いかに心地好くとも、人は、いつまでも眠っているということはできないのじゃから。」

「あたくしだって、帰りたいとは思いませんわ。」

 老人のとなりから、星の娘も言った。

「こんな素晴らしいところ、決して、よそにはありませんもの。
 あたくしたちは、帰りたいのではなくて、帰らなくてはならないの。
 あたくしたちは、物語を語る者。ここのことを語るためには、ここに来て、そして、帰らなくては。」

「あなた方にも、とうとう、時が来たのですね。」

 三人は同時に振り向き、草の上に、青い髪の女王が立って微笑んでいるのを見出した。

「あの子も、かつて、ここから去っていった。
 あの子にもまた、しなくてはならないことがあったから。
 人が物語の世界に入るのは、そこで力を得て、そこから出ていき、もう一度、外の世界を歩くためです。
 あなたがたはここを去ってゆくけれど、心の中に、ここでの記憶を持ち続けるでしょう。
 その記憶が、困難な時にもあなたがたを支え、あなたがたを救うかもしれない。
 そして、いつか地上でのあなたがたの時が尽きるとき、そのときには、あなたがたは、再びここに戻ってくることもできるのです。
 もしも、あなたがたがそう望むのならば。
 人はみな、最後の瞬間には、自分が信じた物語の中に帰ってゆくのですから。」

 老人は頷いた。

「わしは、いつか、ここに戻るでしょう。アウローラくんが愛した、この国に。
 そして、幼い頃の彼女が出会った、たくさんの人々と、再びことばを交わすでしょう。」

 星の娘も頷いた。

「あたくしも、戻りますわ。その時が来れば、きっと。
 そして、あたくしはこの大温室で、一日中美しい花々を見て、夜には星を見て――
 そして、あなたが淹れてくれた、美味しいお茶を飲みますわ。」

 星の娘は、最後のことばを、仮面の男に向かって心を込めて言った。

 彼は、すぐそばで悲しい顔をして突っ立っていたが、星の娘のことばを聞くと、笑おうとするように口元を曲げた。

「それでは、」女王は言い、衣のすそをひるがえした。「ついておいでなさい!」



庭の王国への旅43へと続く

庭の王国への旅 41

2015年11月18日 19:01

        *     *     *


 それから、星の娘と老人は、幾日も薔薇の城に滞在した。

 眠るためには、それぞれ一部屋ずつが割り当てられており、香りのいい蝋燭が灯され、老人には緋色の天蓋、星の娘には紺碧の天蓋のついた立派な寝台がそれぞれ用意されていた。

 眠りにつこうとする頃には、いつも金のカップに入った温かい飲み物――その時によって香りの違う、薬草を煎じた茶――が枕元に置かれていた。

 それはどうやら、あの白い仮面の男が用意してくれているようで、星の娘は寝室に向かおうとするとき、こちらを向いて廊下を歩いてくる仮面の男と行き合い、会釈を交わして行きすぎることがたびたびあった。

 だが、少なくとも星の娘は、彼と寝室で出くわしたことは一度もなかった。

 夜、ふかふかの寝台でぐっすりと眠り、朝になって目が覚めると、星の娘はまず食堂へ向かった。

 そこは奥行きのある白い広間で、天井近くにいくつも明かり取りの窓が並ぶ明るくがらんとした場所だった。

 何十人もが一度に着席することができる長い黒檀のテーブルがあり、星の娘がここに来ると、いつもちょうどその直前に並べられたばかりのような温かさで、金の深皿に入った香ばしいお粥のようなものと、浅い皿に花のような切り込み飾りをつけて盛られたとりどりの果物と、目の覚めるミントの香りのお茶が並べられていた。

 星の娘は毎朝、他に誰もいない食堂で、お腹いっぱいになるまで朝食を食べた。

 一口食べ、飲むごとに、豊かな風味が口の中いっぱいに広がり、滋養が体じゅうにしみわたっていくような気がした。

 食事を終えると、星の娘はいつも立ち上がって食堂の壁際をぐるりと散歩することにしていた。

 そこには様々な大きさや形の額縁にはまった絵が飾られているのだが、その絵は毎日、違うものになっていた。

 誰かが――それは、あの仮面の男の他にはいないだろうが――毎日、すべての絵をかけ替えているのか、それとも、絵そのものが変わっているのか、星の娘にはよく分からなかった。

 それらの絵は、荒々しい怪物や、さびしく暗い風景を描いたものもあれば、鳥や植物などの姿をおそろしく細密に描いたものもあり、また、街や、橋を描いたものもあった。

 ただ空と、雲を描いただけのものもあり、魚、獣、武器、衣服、食べ物、山脈や大河などの景色を描いたものもあった。

 どの絵の中にも、人の姿はなく、どれほど荒々しい場面が描かれていようと、どの絵もみな、静かな感じがした。

 その日の絵をみんな見尽くすと、星の娘は食堂を出て、城の中をどこへでも足の向くままに歩いて行った。

 図書館に入り、書架から本を取り出してはさまざまな意匠を凝らした表紙を眺めて楽しむこともあったが、だいたいは大温室に向かった。

 大温室はその名の通りに広大で、そこに集められた植物たちは、高地に生えるもの、熱帯雨林に生えるもの、砂漠に生えるもの、湿地、海辺、極地に生えるものと、あらゆる植生を網羅しているかのようだった。

 様々な花の香りをかぎ、葉の色や形のちがいを楽しみながら歩き回ったあとで、星の娘が疲れた足を休めるのは、いつもきまって薔薇の女神が眠る貝殻の寝台のそばだった。

 絹糸のようにつややかでやわらかな草の上に座り、ときにはごろりと横になって、星の娘は温室のガラスごしに空を眺めた。

 雲ひとつない空は、宇宙に近いことを思わせる澄んだ青さで、寝転んだまま見つめていると、吸い込まれていきそうな、あるいは、どこまでも落ちていきそうな感覚にとらわれるのだった。

 空腹になると、立って実のなる木のところへ行き、赤や黄色に色づいた実をもいで食べた。

 これは女王が教えてくれたことだった。

 この大温室にはいくつもの食べられる実のなる木があって、それらの全部がどこに生えているか、高いところになっている実をどうやって取ればいいか、ここへ来てすぐのうちに、女王は親切に何もかも教えてくれた。

 星の娘は、手がかりになる枝がたくさん出ていて、しかも折れにくい木を選び、習った通りにするすると登っていった。

高いところで二股に分かれた枝のあいだにおさまり、すぐそばになっている握りこぶしほどの大きくやわらかい実をたくさんもいで食べ、黒くてサクサクとした歯触りの種まで全部食べてしまった。

 やがて一日の終わりに空の片側が染まりはじめると、星の娘はそちら側に面した中で一番背の高い木によじ登り、樹冠から顔を出して、この上もなく美しい色彩の層のうつりかわり、この上もなく繊細微妙な暈しの具合を飽かず眺めた。

 その美しさを眺めていると、光こそがこの世の美しさの全ての源ではないかという荘厳な気分になった。

 すっかり日が暮れて、闇の帳がおりる寸前の空の色は、どんなことばをもってしても言い表すことはできないと思った。

 そして小さな白い花がかたい花弁を開くように、空に無限の星が瞬きはじめると、星の娘はすっかりお腹を空かして木から降り、朝食を食べたのと同じ食堂へ降りていった。

 そこにはあたたかな灯りがともされ、女王と、老人と、仮面の男がいて、大きなテーブルの隅に皆で座り、用意された温かい夕食を食べるのだった。

 老人と仮面の男は酒を飲むこともあり、その美しい紅色や琥珀色、花のような香りは星の娘を魅了したが、彼女は女王と温かいお茶を飲むことにしていた。

 四人は大いに食べ、飲み、談笑したが、まるで紗の幕を通して見るようにその中身はすぐにぼやけてしまって、席を立つ頃には、何を話したということも覚えてはいないが、ただ楽しく温かい気持ちだけが心を満たしているのだった。

 眠る前には、あの多段滝の浴場で心ゆくまであたたまり、浅い場所を見つけて寝そべりながら、天窓から見える星々がゆっくりと動いてゆくさまを眺めるのだった。

 毎日、星の娘はそうやって過ごした。

 星の娘は、この城で暮らしながら、心からくつろいでいた。

 起きて、食べ、飲み、湯浴みして眠る。

 何かをしなくてはならないということはなく、ただ心の赴くままに、したいことをして一日を過ごし、美しいものを心から美しいと感じる。

 幸福であり、満ち足りていた。

 これ以上のものはない日々だった。



庭の王国への旅42へと続く】

庭の王国への旅 40

2015年11月14日 14:08

       *     *     *


 辺りには濃い緑のつややかな葉と桃色の花をつけた低木が生いしげり、道はなかったが、重なり合う低木の途切れているところを選んで進んでいくと、急にひらけた場所に出た。

 一面がやわらかな芝生におおわれ、あたりを木立に囲まれた円形の広場だった。

 この大温室の中心にあたる場所に、彼女は来たのだ。

 円形の広場の中央から、想像を絶するほどに巨大な大樹の幹と見えるものがねじれながら天井に向かってそびえ、ドーム型のガラスの天井の頂点を突き抜けて、さらに遥か上まで伸び上がっていた。

 その幹は、大人の男が二十人集まって手をつないだとしても取り囲むことができないのではないかと思われるほど、桁外れの太さを持っていた。

 あまりの威容に、星の娘は最初、それが生きている植物だとはとても信じられず、人工的に建てられた壮大な記念碑か何かに違いないと思ったほどだった。

 その巨木のふもとに、女王が立っていた。

 その姿はまるで芥子粒のように、小さく見えた。

 女王のとなりには、その身の丈よりも大きな白いモニュメントのようなものがあったが、すぐそばに近付くまで、星の娘には、それが何だか分からなかった。

「彼女は眠っているのよ。」

 星の娘がとなりまでやってくると、女王は優しい声でそう言った。

 白いモニュメントのように見えたものは、大きく波打つふちを持った二枚貝の貝殻で、人がひとりゆうゆうと横になれるくらいの大きさがあった。

 開いたその貝殻の中には、純白の絹の寝床がしつらえてあって、そこに、長く波打つ金色の髪をした美しい乙女が眠っていた。

 薔薇色の飾り房のついた夜着を着た乙女は、その胸がごくゆっくりと上下していることを除けば、ほとんど生きているようには思われなかった。

 その寝顔は静謐で、彼女が夢も見ない深い眠りの中にいることを思わせた。

「薔薇の、女神さま?」

 星の娘は、感動と、畏怖の念とが入り混じったような声で囁いた。

「そう。彼女は、十年に一度、この薔薇の木が花咲くときにだけ目覚めるの。」

 巨木の幹に手を触れながら、女王は言った。

 星の娘は驚いた。

「薔薇の木? ……では、今ここに見えている巨大な木が、そうなのですか?
 陛下は、このお城全体が、薔薇の木の内側にあるとおっしゃったはずですけれど。」

「この大温室は、城の中で最も高い場所で、ここだけは薔薇の木の外側に築かれたのです。
 昼間の鳥も行かない空高くで、薔薇の木のぐるりを取り囲む張り出し舞台のようにして築かれているの。
 そのほうが、ずっと日当たりがいいからと、あの子が言っていたわ。
 ここはもう、雲の上ですもの。
 もちろん、薔薇の木はもっと高くまで伸びているのだけれど。」

 女王は、ごつごつした幹を撫でながら言った。

「この薔薇の木は、王国の中心であり、魔法の源。
 そして彼女の命は、この薔薇の木とひとつであり、この王国とひとつのものなのよ。」

「どうして、この方は眠っていらっしゃるの?」

 乙女の静かな寝顔を見下ろしながら星の娘が訊ねると、女王は微笑した。

「それはきっと、あの子が、眠ることが好きだったからでしょう。
 あの子は眠って夢を見ることを楽しんでいたわ。
 それに、温かい寝床の中にいるときが、一番平穏な気持ちを味わうことができたのね。
 でも、外の世界では、そうはいかない。あの子はそのことが分かっていたの。
 外の世界では、ずっと眠っているなんて許されないということが。
 だから、あの子は、彼女に、自分の眠りを託したのよ。
 何者にも破られることのない、長く平穏な眠りを。」

「では、アウローラさんは、本当はずっと眠っていることを望んでいたというのですか?」

「あの子は、平穏を望んでいたの。」

 女王はそう言い、薔薇の女神と呼ばれる乙女の金色の髪をちょっと撫でてから顔を上げた。

「さあ、そろそろ行きましょうか。
 ここはとても涼しくて気持ちがいいけれど、あたたかいところでくつろぐのも、素晴らしいことですものね。」

 女王に続いてその場を後にしながら、星の娘は振り返り、巨大な薔薇の木と、そのそばで眠る乙女の姿をもう一度見た。

 澄んだ光の中で、乙女の姿は確かに、とても平穏に見えた。

 涼しい空気はそよとも揺らがず、鳥の羽音や葉ずれの音ひとつせずに、何もかもが清澄で、静かだった。



【庭の王国への旅41に続く】

庭の王国への旅 39

2015年11月10日 22:07

     *       *       *


 女王は無言のまま、星の娘を導き、足音が無数に反響する大広間を通り抜け、ぐるぐる回る螺旋階段を上がっていった。

 螺旋階段の手すりには、長い長い神話か伝説の風景が、まるで絵巻物のように彫り付けられていた。

 美しい花や、鳥や、戦いの様子を星の娘は熱心に眺めながらゆっくりと歩を進めていったので、ほとんど疲れたとも思わなかったが、その螺旋階段の高さはちょっとした塔の天辺に上ることができるほどもあった。

 やがて螺旋階段は終わり、黒い金属の枠にガラスをはめ込んだ巨大な扉の前で女王が待っていた。

 ガラスは極めて上質な水晶のように完全に透明で、その向こうにあるものがはっきりと見えた。

「ここが大温室。あの子は、ここが大好きだった。
 私もそうよ。一日中だってここにいられるわ。
 あなたも、きっとここが好きになるでしょう。さあ、入って。」

 女王が手を振ると扉はひとりでに大きく開き、少し湿り気を帯びた、涼やかな空気が流れだしてきた。

 ふたりの足元からは灰色の石畳の小路が続いており、その左右には、両側から覆い被さらんばかりに植物が生い茂っていた。

 女王が先に立ち、石畳を踏んで進むと、その隙間から生えているみずみずしいコケや小さなシダのたぐいが衣の裾に触れて、独特のにおいを発した。

 濃密な土と水のにおい、森のにおいだった。

 星の娘は、悪くない、心が落ち着くにおいだと思った。

 上を見上げると、緑の葉が重なった隙間、だいぶ高いところに、温室のガラスの天井がちらちらと光って見えた。

 やがて、石畳の小路は、池とぶつかった。

 右手から流れてきた小川が池をつくり、水の中では、鈍い銀色の小さな魚が群れをなして泳いでいた。

 だが、星の娘は魚たちのことなど、ほとんど見てもいなかった。

 彼女の目は、その先にあるもの、女王が彼女に見せようとしたものに吸いつけられてしまっていた。

「さあ。」

 女王が促し、星の娘のために道を譲った。

 星の娘は、魅入られたようにゆっくりと池の中へ踏み出していった。

 石畳は水辺で途切れていたが、水面とほとんど同じ高さに突き出した円柱形の飛び石があり、そこを踏んでいけるようになっているのだった。

 飛び石はよくあるようにほぼ一列に並んでいるのではなく、池のあちらこちらに不規則に配されていた。

 完璧な円形をした飛び石の上の面には、様々な物語を記した美しいレリーフが施されていたが、星の娘はそれを見もやらず、一歩、また一歩と飛び石の上を進んでいった。

 彼女の目の前には、一本の樹が生えていた――

 池の中から、すらりと姿よく幹が伸び上がり、枝ぶりも均整がとれた美しい樹が。

 その樹皮はなめらかで、金と、銀のまじり合ったような何ともいえぬ光沢があった。

 だが何よりも美しいのは、その葉だった。

 無数の葉は、すべて完璧な銀線細工でこしらえあげたような葉脈だけからなっており、空気のわずかな揺らぎにも震えて触れあい、リリ、ララ、とほんのかすかな、星の囁きのような美しい音をたてていた。

 ルビーの花芯と水晶の花弁がそこここでかすかに光を放ち、実はさくらんぼの粒ほどの大きさの真っ赤な宝玉だった。

「この樹は、あの子が一番気に入っていた樹なの。」

 星の娘の後ろから、樹がたてる音の邪魔をしないよう、吐息のような声で、女王が言った。

「地上にはない、世界で一番美しい樹。ここにあるひと株きりよ。
 でも大丈夫、この樹は何千年も生きるから。」

「では、陛下よりも長生きするのね。」

 星の娘が驚いて言うと、女王は笑ったようだった。

「あら、私だって、何千年も生きるわ。あるいはもっと。……あるいは、永遠に。
 だって、私たちは今ここにいるでしょう。
 一度、生まれたものは、無かったことにはならないの。永遠なのよ。」

 星の娘が黙っていると、女王はふわりと風のように星の娘のとなりをすり抜けて、樹のすぐ隣に立った。

 そして、ちょっと樹の幹を撫でて、

「さあ、行きましょう。」

 と、さらに奥へと続いている飛び石を踏んで歩いていった。

 星の娘は進み出て、女王が立っていたところに立ち、美しい樹を真下から見上げた。

 重なりあう枝と葉のあいだから、光が射してきて、まるで美しい音と一緒にきらめきの粒が降ってくるようだった。

 胸がすうっとするような香りがして、それがどうやらこの樹の花か果実の香りであるようだった。

 星の娘は手を伸ばして、樹の幹を撫で、その指先を鼻先に近づけてみた。

 花と果実の香りと近いけれども、少し苦みのある涼しい香りがした。

 この樹は確かに生きている、と星の娘は思った。

 そして、この樹はこれから何千年も先まで、あるいは世の終わりまで、変わらずにここに生えているのだと思うと、荘厳な気持ちになった。

 星の娘はもう一度、軽く樹皮を撫でると、女王のあとを追って奥の飛び石を踏んでいった。

 やがて無数のトウシンソウが辺りに生い茂ったと思うと、すぐに池はおしまいになり、星の娘は緑の芝におおわれた岸辺にたどり着いた。




【庭の王国への旅40へと続く】

庭の王国への旅 38

2015年09月10日 21:02


       *       *        *


 それから二人は、長いこと湯に浸かってあたたまっていた。

 星の娘が、もうこれ以上は我慢できないと思うころになって、女王は立ち上がった。

「そろそろ、あがりましょうか。」

 星の娘は多少ふらつきながら立ち上がって、女王のあとに続き、少しぬるめの湯が高いところから注がれている場所へ行った。

 その下には大きな貝殻のかたちをした器が据えてあって、そこに入った湯は四方へ広がり、無数の雨粒のように降り注いでいた。

 女王と星の娘はそこで頭から水を浴びて汗を流した。

 女王のすすめで、星の娘は髪を編み上げていたリボンを全部ほどき、銀色の長い髪が湯に洗われるにまかせた。

 女王は再び身ぶりだけで星の娘を促すと、はだしで白い床を踏み、浴場の隅のほうへ歩いていった。

「あの、あたくし、あちらに服を置いてきておりますの。」

「大丈夫よ。」

 女王は悠揚せまらぬ調子でそう答え、歩みを止めなかった。

 浴場のすみには色とりどりのタイルの敷き詰められた場所があり、そこにふたり分の身支度が用意されていた。

 ふたりはやわらかな布を手に取り、心ゆくまで時間をかけて長い髪から水気をとり、丁寧にくしけずり、仕上げに薄い布を頭に巻いた。

 ゆるやかな衣を帯でとめ、やわらかい布の靴をはくころには、星の娘もこれ以上なくくつろいだ気持ちになっていた。

 だが、彼女はふと大切なことを思い出し、自分がそのことを今まで忘れていたということに驚いた。

「あら、陛下。あたくし、おじいさま――あたくしの連れのこと、すっかり忘れていましたわ。
 あたくしたち、髪をかわかすのにずいぶんひまを取りましたから、連れはあたくしのこと、もうずいぶん待っていると思いますわ。」

「大丈夫よ。」

 女王は、先ほどと同じ調子で答えた。

「さあ、私たちは、お庭に涼みに行きましょう。」

 そう言って、女王はゆったりと歩きはじめた。

 歩くたびに、湯上りの肌にやわらかな衣が触れ、星の娘それをとても心地好いと感じた。

 城の内部は本当に驚くべき広大さで、女王と星の娘は、果てが見えぬほど長い壮麗な大回廊や、美しく荘厳されたいくつもの部屋を次々と通り過ぎた。

 そのどこにも、人の気配はまるでなかった。

 どの部屋も廊下も明るく、完璧な美しさを保っているために廃墟のようではなかったが、まるで、人の暮らす場所ではなく、訪問者も職員もみな帰ってしまったあとの美術館のような雰囲気だった。

「あら。」

 星の娘は、思わず声を上げて足を留めた。

 彼女たちは今、左側の壁面がみなガラス窓になった、ゆるやかに右にカーブする廊下を歩いていた。

 ガラス窓の向こうには青い空だけが広がっており、この場所はいったいどれほど高いのか、眼下には雲海が広がっているだけだったが、星の娘の注意を引いたものはその景色ではなかった。

 右手のクリーム色の壁には、先ほどからずっと等間隔に両開きの木の扉がついていたが、そのうちのひとつが開いていて、中の様子が見えたのだ。

 そこは、巨大な図書館の内部を見おろす最上部の回廊の入り口だった。

 星の娘は、思わず中に踏み込んでいった。

 遥か下に見える一番下の階の中央に、円形の広場のような空間があり、その上は全部吹き抜けになっていた。

 その上に何層にもわたって、放射状に書架が並ぶ環状の階層があり、星の娘が見おろす一番上の回廊のすぐ頭上は、ラピスラズリの青色をしたドーム型の天井になっていた。

 そこには、金の線で天体の運行の軌跡が描かれ、ひとつひとつの星々には鈍く光る宝石ははめ込まれていた。

「陛下は、素晴らしい図書館をお持ちなのですわね!」

「でも、ここにあるほとんどの本のページは、まだ白いままなの。」

「えっ?」

 星の娘は思わず、となりに立った女王の顔をまじまじと見た。

 女王は穏やかに微笑んでいた。

「そう、この何十万冊もの本のうちの、何冊かが、ようやく埋まったというところ。
 あとはみな、まだ白紙なの。
 あの子が文字にしなければ、他に誰もしないのだから、それも当たり前のことね。」

「では……この図書館は、白紙の本をたくさん用意してあるだけの場所ということですの?
 本を――ふつうの物語や知識の本を、置いたりはなさらないのですか?」

「あの子は、ここでは、本を読まないもの。
 本を読むのは、外の世界ですること。
 自分自身がつくり出す物語の中で、よその人が書いた物語を読むなんて、おかしなことでしょう?」

「では……」

 星の娘は、何度も言いかけては、口を閉じ、気を落ち着けるように何度も息をついてから、やっと言った。

「ここが……ここの、何もかも……陛下や、あたくしたち、みんな……」

「あら。」

 女王が不意に言って、回廊の手すりから身を乗り出し、下の方を指さした。

「あそこにいたわね。ご覧なさい。」

 ふたりがいるところから数層、下った回廊のひとつで、書架の側に置かれた黒いテーブルに向き合って座り、ふたりの男――老人と、仮面の男が、チェスのようなゲームに興じていた。

 はじめに見下ろしたときは、その広さに圧倒されたのと、ふたりが魚を狙う鳥のようにじっと動かずにいたために、その姿が目に留まらなかったのだ。

 仮面の男がすっと手を伸ばして一手をさし、再び、椅子に深くかける姿勢に戻った。

 老人は心持ち身を乗り出して顎に手をやり、じっと盤上を見つめていたが、しばらくして、思い切ったような動作で一手をさした。

 それから、ふたりはまた動かなくなった。

「さあ、私たちは、お庭に行きましょう。」

 女王がゆったりと衣のすそをさばいてきびすを返し、星の娘も、振り返り振り返りしながら、図書館を後にした。




【庭の王国への旅39へと続く】

庭の王国への旅 37

2015年09月08日 20:57


            *          *         *


 星の娘は、女王の招きに応じることにした。

 水色の湯からあがり、薄紫の湯が流れ落ちてくる白い階段を、一歩一歩、注意深くのぼっていった。

「どうぞ、お入りなさい。」

 女王は翡翠色の湯に満たされた浴槽のふちに両腕を預け、後ろに頭をもたせかけて、ゆったりとくつろいでいた。

 間近に見る女王は堂々たる長身で、その胸元や腰つきの豊かさは、とても星の娘の及ぶところではなかった。

 星の娘は慎ましく一礼して、女王と同じ湯船に浸かった。

 下の湯は爽やかなにおいがしたが、ここの湯の香りは、もっと柔らかく、懐かしく――どこか、母親を思い出させる、と星の娘は思った。

 女王は何も言わず、美しい青い目を天井のほうに向けていた。

 その視線の先を追うと、天井の最も高くなったところに天窓があって、湯気のためにぼやけてはいるが、青い空が見えた。

「あの、陛下。」

 女王があまりにもくつろいでいるふうなので、星の娘は、遠慮がちに声をあげた。

「お訊ね申し上げたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」

「いいわ。」

 女王は、天窓の向こうの空に目を向けたままで答えた。

 その口調は、先ほどまでと違い、まるで気の置けない友人か家族とでもいるような調子になっていた。

「では、お訊ねしますわ。ここは、薔薇の城の内部なのでしょうか?」

「ええ。」

「この、広い浴場の、全てが?」

「ええ。」

「あたくしたちが通ってきた、あの不思議なトンネル――
 ボートに乗って通ってきたトンネルも、ずっと、薔薇の城の中を通っていたのでしょうか?」

「ええ。」

「でも――」

 星の娘は、思わず手を振り、あのとき目にした広大な星空、そこに広がっていたオーロラのことを伝えようとした。

 そこでようやく、女王はゆっくりとこちらに目を向け、微笑んだ。

「この城は、外から見ると、とても大きな、一本の薔薇の木なの。
 でも、内側は、外から見た姿よりもさらに……いいえ、遥かに、広く、深くできているの。
 人間の心と同じよ。
 どんなに小さな子供の心だって、限りない広がりと、深さを持っているでしょう。
 でも、外からは見えない。」

「薔薇の木の中に、こんな――」

 星の娘は、敬意を込めてあたりを見回し、浴槽のふちに施された素晴らしい彫刻や、噴水や、アーチ型の門や水道橋の美しさを讃えた。

「陛下は、よほど腕のいい職人たちを抱えていらっしゃいますのね。」

 女王はあいまいに微笑んだ。

 何か間違ったことを言っただろうか、と星の娘が思っていると、女王はまた顔を天窓に向けて、遠くを眺めるような表情になった。

「この城はね、みんな、物語の力でできているの。
 一本一本の柱も、細密な彫刻も、どれもすべて。
 それを言うなら、この王国に存在するもののすべてが、そうなのだけれど。
 みんな、あの子がつくって、残していったのよ。」

 あの子というのが誰のことなのか、もちろん、星の娘には分かった。

「アウローラさん……?」

「そんな名前だったかもしれないわ。
 私たちは、名前で呼び合ったことはなかったから、分からないけれど。」

「では、何と呼び合っていらっしゃったのですか?」

「何も。私たち、お互いに呼びかけたことはなかったわ。
 話したこともなかった。」

「えっ?」

 星の娘が声をあげると、女王はまたこちらに目を向けて、微笑んだ。

「だって、私たちは、同じものだもの。
 自分がもうひとりいるようなものよ。
 あなたは、声に出して自分自身に呼びかけたり、話しかけたりするかしら?」

 驚いてかぶりを振りながら、星の娘は、たちまちもうひとつの疑問が湧き上がるのを抑えられなかった。

「では……あの、失礼ながら、この国にはこれまでに三人の女王が存在したと聞いておりますわ。
 一番目がアウローラさん、二番目が陛下……
 そして、三番目の、薔薇の女神と呼ばれていらっしゃる方も、陛下と同じような存在なのでしょうか?」

「いいえ、彼女は、私のようではないわ。
 あなたがアウローラさんと呼んでいる人間の少女と私とは、とても近いけれど、彼女は遠い。
 それに彼女は、薔薇の花が咲いているとき以外はずっと眠っているし、花が咲いて目を覚ませば、すぐに玉座の間にのぼっていって王国の様子を眺めるので、城の中で私たちと顔を合わせることはめったにないの。」

 星の娘は、女王の言っていることをすべて理解できたわけではなかったが、それ以上の質問を加えることはなかった。

「まあ、そんなことはいいでしょう。」

 女王はそう言って、湯の中で大きく伸びをした。

「ここは、くつろぐための場所。
 難しいことを話し合ったり、考えたりすることはないわ。
 ああ、お湯に浸かってこんなふうに体を伸ばしていると、なんて気持ちがいいのかしら。」



【庭の王国への旅38へと続く】

庭の王国への旅 36

2015年08月29日 21:39


      *         *        *


 仮面の男は、老人の戸惑いが理解できない様子だった。

「二の女王陛下は、そのようなことをお気にはなさいません。
 あなたがたをお待ちでいらっしゃいます。」

「たとえ、そうでも……いや、どうしても、いけませんぞ。」

「ヘリオスのおじいさま。」

 断固として言い募る老人に、星の娘は、思わず言った。

「あたくしたち、湖で、妖精たちと一緒に過ごしましたわ。
 そうでしょう?
 あの方たちだって、何も身に着けていなかった。
 今さら、気になさることはないのじゃありません?」

 老人は、そのことに初めて思い至ったという顔で星の娘を見たが、すぐにかぶりを振った。

「いや……やはり、いかんな。
 考えてもみなされ、皆で一緒に入るとなれば、どうしたって、君の姿も目に入るじゃろうが。
 同僚の、それも妙齢の女性と一緒に湯に浸かるなど、どうにもこうにも、居たたまれぬよ。」

「それも、そうですわね。」

 星の娘は、少し頬を赤くして言った。

「それでは、あたくしが女王陛下とご一緒しますわ。
 お話ししたことを、あとでおじいさまに伝えますから。」

「そうですか?」

 仮面の男は、どうもわけが飲み込めないという様子で言った。

「それでは、ここの浴場はとても広いですから、ご老人は、別のところでお湯をお使いになられるとよろしいでしょう。
 そちらには、後ほど、ご案内いたします。
 ――ああ、着きました、こちらです。
 さあ、どうぞ、お入りになってください。」

 いまや、あたりに立ちこめる湯気はいっそう濃くなり、湯のにおいも強くなっていた。

 仮面の男が、両開きのカーテンのように垂れ下がった白い布の端を持ち上げると、先ほどの霧を思わせるような真っ白な湯気が漂い出てきた。

「着替えはどうすればよろしいの?」

「用意はすべてととのっております。
 私たちは、本当にずっと長いあいだ、お客さま方をお待ちしていたのですから。
 そのままお進みください、さあ――」

 仮面の男に促されるまま、星の娘は、湯気に満たされた中へと踏み込んでいった。

 はじめのうちは、本当に先ほど霧に包まれたときのように、ほとんど何も見えなかった。

 手を前に突き出し、一足ごとに爪先で足元を探りながら進んでいくと、やがて少しずつ湯気が薄れてきて、自分が無数の円柱が立ち並ぶ広い通路のような場所にいることが分かった。

 床はこれまでのようにつるりとした乳白色の一枚板ではなく、ツタを図案化した模様が一面に刻まれ、それらの模様のすべてに金線がほどこされていた。

「お入りなさい。」

 と、奥から誰かの声が聞こえたような気がした。

 だが、その声はあまりにも小さく、まるで眠りに落ちる直前に耳元で囁かれた声のようにおぼろげで、星の娘は今の声が本当に聞こえたものなのかどうか、確信が持てなかった。

 通路の先に、上部がアーチ型になった出口が見え、そこを抜けたとたん、星の娘は目の前の光景に圧倒されて立ち止まった。

 彼女が立っている場所のすぐ足元から、幾重にも重なるようにして、白い床を色とりどりの湯の川が流れていた。

 湯の川はどれも高さが違い、そのふちはどれもなだらかに削られ、その上にはいくつもの橋がかかっていたが、先ほどの場所とは違って、それらの橋には欄干はなかった。

 そして何よりも圧倒的であったのは、それらの湯の川の向こうに、色とりどりの湯が流れ落ちる壮麗なカスケード――多段滝がそびえていることだった。

 その光景はまるで、巨大で複雑きわまりないシャンパンタワーのようにも見えた。

 古代の壮大な神殿か城がすっかり野ざらしになり、永の風雨にあちこちが削られてなめらかになり、そのあちらこちらで湯が湧いて、門という門、通路という通路から下へ下と流れ落ちているようだった。

 ところどころには門があり、噴水があり、ひさしや橋があり、半ばで途切れた水道橋があり、それらの全てから、どうどうと惜しげもなく湯が溢れていた。

 あちらは薄い水色、こちらは緑、菫色、乳白色、温かみのある桃色、橙、緋色に近い赤と、全ての湯船――というよりも湯だまりで色が違っていた。

 全ての湯は下段に流れ落ちるにつれて混じり合うのだが、絵具をといた水を混ぜ合わせたときのように色が濁ることはなく、むしろ薬草茶にブルーマロウの花弁を投じたときのように、紅茶にレモンを入れたときのように、成分同士が作用し合うのか、魔法のようにぱっと色彩が変化し、どこも美しく、それぞれに独特のにおいを漂わせていた。

 星の娘は温泉というものを知らなかったが、彼女はこの光景を目の当たりにしてすっかり感動し、このすばらしい湯にすぐにでも浸かってみたいものだと思った。

 まわりを見回すと、床が一段高くなったところがあり、編目も美しい籠がいくつか並んでいた。

 高くなった場所の中央には、乳白色の石でつくられた、ほっそりとした木の彫刻があり、その枝には精緻な針目でたくさんの葉の模様を刺繍した長いリボンがいくつもかかっていた。

 星の娘は身につけている衣服をためらいなく脱ぎ、籠に入れた。

 磁器のようになめらかで、バレリーナのようにほっそりとした裸身をさらしながら、彼女は少しのあいだ、長い銀色の髪をどうしようかと迷った。

 それから思い付いて、白い木にかかっていたリボンの何本かを抜き取り、細い指先で器用に髪に編み込み、頭のまわりにくるりと巻いて留めた。

 橋を渡り、色とりどりの湯の川があげるにおいのよい湯気を浴びながら、星の娘は、多段滝の一番下にあたる池のように広く浅い水色の浴槽にたどり着いた。

 そばには床から直接噴き上がる噴水があり、水色の湯が中空にかかる幕のようになっていた。

 星の娘は用心深く近付き、手で湯に触れてみて、ちょうどよい温度だと分かると、思い切って、落ちてくる湯の中に踏み込んだ。

 あたたかい湯が肌の上を流れ落ちていくにつれて、えもいわれぬ心地好さが体にしみ入り、星の娘はほうっと息を吐いた。

 肌を撫でて汚れを落としてから、緩やかな階段を降り、広く浅い浴槽に湛えられた水色の湯の中に踏み込んでいった。

 座ると、湯の深さはちょうどみぞおちの下あたりになった。

 爽やかなにおいのする湯は、熱くもぬるくもなく、ちょうど心地よい温度で、これならばいつまででも浸かっていられそうだと思った。

「いい気持ちでしょう。」

 上のほうから、そんな声が聞こえた。

 いつもの彼女であれば驚いて飛び上がったところだろうが、湯に浸かってすっかりくつろいだ気持ちになっていた星の娘は、湯の中で後ろに手をつき、おもむろに顔を上げて声の主を探した。

「お湯に浸かっていると、本当に、とても気持ちがいいわね。」

 また、声が聞こえた。

 星の娘がいるところよりも三段ほど上の、石造りの門があることによってまるで額縁にはまったように見える場所から、ひとりの女性が星の娘を見下ろして微笑んでいた。

 その女性は片腕をゆったりと浴槽のふちにあずけ、首をひねってこちらを見ていた。

 その髪と目は、まるで陽光を受けたサファイアのようにあざやかな青色をしていた。

 若いとは思えなかったが、若くないというふうにも見えず、ただ、美しい大人の女性だと星の娘は思った。

 彼女は、水色の湯の中に立ち上がり、言った。

「二の女王陛下でいらっしゃいますのね。」

「ええ。」

 女王は親しげに頷きかけ、居ずまいを正して礼をしようとする星の娘を片手の仕草で押しとどめた。

「でも、そんなことは、どうでもいいのです。
 ここは、寛ぐための場所。
 ここのお湯は、とてもいい気持ちでしょう、においもいいし。
 よければ、上がっていらっしゃい。
 ここは、とても眺めがいいの。」



【庭の王国への旅37へと続く】



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。